お題の説明:
死(読み)し
生または生命に対置される概念で、医学、生物学、哲学、宗教、法律学、心理学など種々の角度からとらえられる。
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医学的、とくに臨床的に死という場合は、心拍動、呼吸運動および脳機能の永久的停止が明確になったときと考えられており、人の死を判定するうえでは、一般的にみて、これがもっとも矛盾の少ない死の判定基準といってよいであろう。一方、医療技術の進歩に伴って、脳機能の回復見込みがまったくない患者を、人工呼吸器の装着により機械的に維持管理しうるケースが増加し、これに伴って、「脳死」という新しい死の概念や判定基準も示されてきた。しかし、これらは、個体死のなかでも人の死に対する臨床的な考え方であり、他の高等動物の死にもある程度は適応しうるが、あらゆる生物に当てはまるわけではない。したがって、人の死に対する医学的な判定、および死後における法医学的規制等については、「死亡」の項で詳述する。
生物学における死とは、生物が生命を不可逆的に失った状態をいう。一般的には個体の死を意味するが、器官、組織、細胞などのレベルにおいても死ということばが用いられる。「個体が生きている」「細胞が生きている」という場合の生死の基準は、それぞれのレベルで、普通に期待される存在価値が認められるか否か、ないしは、一定の機能を営んでいるか否かにあるといえる。たとえば、バクテリアがその生存を認められるということは、分裂して増殖することができるということであり、殺菌剤や紫外線照射で繁殖能力を失うと、個々のバクテリアが物質代謝を停止しない状態であっても、そのバクテリアは死んだことになる。高等動物では、繁殖能力を失っても神経機能やその他の臓器活動が停止しなければ、その個体は生きているわけであり、生物の種類によって生死の基準が異なってくる。したがって、生物学的な死とは、個体から細胞までのさまざまなレベルでの価値判断の基準、または生命力の規定に基づくものであり、これを概念化すれば、「その不可逆的喪失」という表現が形成される。生物学の進歩に伴って生命の概念が変われば、必然的に生物学的死の概念も変わるということができる。
高等動物個体では、脳の全活動の停止、心拍の停止、呼吸運動の停止がおこり、人工的な蘇生(そせい)の努力がすべて無効であれば、間違いなく死と判定される。これは高等動物個体に期待される存在価値、主として個体の全一性integrityが不可逆的に失われたからである。しかし、個々の細胞、組織、器官は、培養したり他個体に移植すれば生き続けることもある。これらは器官、組織、細胞レベルでは生きているが、個体を生じる例は知られていない(高等植物では、挿木した小枝から植物体を生じる)。下等動物では、ヒドラやカイメンの例のように、個体をつくっている細胞をばらばらに解離しても、集合した細胞塊から新しい個体ができる。この実験では、元の個体は確かになくなったが、細胞は生き残って新個体を生じるわけであり、これらの動物にとっては細胞の生死が重要であり、細胞が生きていれば、生物学的な価値は維持されていることとなる。すなわち下等動物においては、細胞レベルでの生死と個体レベルでの生死の区別が高等動物ほどには明確でないといえる。一方、ゾウリムシやクロレラのように、体が一つの細胞でできている単細胞生物の場合では、細胞の死が個体の死に等しくなる。
死の事実の自覚目次を見る
医学が進歩し平均寿命が長くなっても、人間はかならず死ぬものである。しかし、われわれは自分の死を直接に体験することはできない。ただ他人の死の現象を通じて、死を間接的に考察できるにすぎない。われわれは死を免れることができないだけでなく、死がいつ訪れてくるかはだれにもわからないし、死出(しで)の旅から帰った人はいないから、死のかなたに何があるかもまったく不明である。この意味では、生にとっては、死は依然として謎(なぞ)に包まれている。しかも、人間には、いつまでも生きていたいという強い執着もあるから、死はやはり不安や恐怖や悲哀に満ちた事実である。そこで、死は、単なる医学や生物学の問題にとどまらず、哲学や宗教の問題として、いつの時代のどこの国の人間にとっても、重大な意味をもつものとして自覚されてきた。
(1)現実の肉体的生命が無限に存続することを信じるタイプ。中国の神仙説が、不老長寿の霊薬である金丹(きんたん)を服用すれば不死になるとしたのを代表として、エジプトのミイラ保存の思想や、キリスト教の最後の審判の日に墓から蘇生して永遠の肉体的生命を得るという終末思想も、このタイプである。現代でも、ホルモン剤を愛用すれば若返ると考えたり、高価な化粧品で若さと美貌(びぼう)が保てると思っている人は多いし、薬や注射でまだまだ死なぬと信じている病人も少なくない。
(2)肉体は消滅しても霊魂は不滅であると信じているタイプ。仏教の西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)や、キリスト教の天国と地獄などの来世観はその代表で、それに伴って死者審判の思想が成立する。またこれとは別に、人間がさまざまな形で生まれかわり死にかわるという再生や輪廻(りんね)の思想もある。霊魂が不滅であれば、死は永遠の生に対する新しい門出である。来世の幸福へのパスポートを入手するために、現世で苦しくても善行を積むべきだとしたり、現実の地獄を理想の天国に変革すべきだとしたり、天国は心の内部に求めるべきだとするように、さまざまな教理と生き方がこのタイプから生じる。
(3)肉体も霊魂も滅んでしまうが、それにかわる不滅な対象に献身することによって、自己を不滅にしようとするタイプ。彼岸(ひがん)や盆や万霊節などに、毎日の生活に追われて忘れていた自分たちの生命の背後にある長い歴史をしみじみと感じる人は多い。父母、祖父母、曽(そう)祖父母というように血筋(ちすじ)をたどっていき、ついにはさかのぼることができないような太古の祖先から、脈々として生命が受け継がれてきた無限の連鎖のなかの一つの環(わ)にすぎない自分に思い至ると、この無限の生命が不滅である限り自分もまた不死であるという自覚に達する。祖先崇拝がその好例である。「生命は短く芸術は長い」というように、科学、芸術、人類の幸福と平和の理想、さらには、日常の仕事や事業など自己の心血を注ぐ対象が永遠であれば、自分も不滅であると信じている研究者、事業の鬼、猛烈社員などは、すべてこのタイプに属する。
(4)肉体も霊魂もそれの代用になるものも消滅してしまうが、現在の行動に自己を集中することによって、生死を超えた境地を体得するタイプ。この好例は、禅の悟りの境地、神と一体となった神秘的体験である。芸道一筋の精進(しょうじん)、血のにじむようなスポーツ練習の積み重ねなどによって、無時間的な一瞬一瞬に、自己をも現世をも忘れた無念無想の境地に入っている人も多い。彼らは、生への執着をも含んだ現実はありのままでありながら、日常生活を新しく意味づけているのである。
死の意味の変化目次を見る
どのような死生観をもっていても、人間はかならず死ぬから、臨終がきて中心人物が息を引き取っても、生き残った者は、喜びにつけ悲しみにつけ死者とのつながりを思い出すので、葬送儀礼や年回法要が営まれる。その形式は昔からほとんど変わらないが、その意味づけは変化してきた。死霊の活動を制限するために死体の上に石を置くのが墓の起源であるが、現在では、墓石は死者に対する追憶や敬慕の情の表現という意味が強い。現代人にとっては、死の恐怖のなまなましさよりも、現実の生をいかに豊かに楽しく充実させるかのほうに重点が移っているからである。このように死は主体的に意味づけされるものであるから、死の意味は今後も変化し続けるのは確かである。
諸民族における死の解釈目次を見る
いかなる社会でも死は人間にとって重大問題であるが、死をどのようにとらえるか、また具体的にどのように取り扱うかは、社会、文化によって異なる。宗教の役割の一つは、死の意味や人はなぜ死ぬのかに答えることである。ヒンドゥー教は、死は輪廻によっておこると説明する。また死の起源はしばしば神話によって説明され、人間はかつては永遠の生命をもっていたが、たとえば人間が禁忌を犯したり、神が怒って呪(のろ)いをかけたためなどの、なんらかの理由で死ぬようになったとされる。
このように神や精霊あるいは妖術(ようじゅつ)や邪術に死の原因が求められることが多い。アフリカのナイル系牧畜民ヌエル人は、雷や突風で死んだ人間は神が空に連れて行ったと考える。アンダマン諸島では、死は精霊、とくに悪霊のせいとされる。死はまた霊魂との関係でとらえられる。メキシコのツォツィル語系マヤ人は、魂は13の部分からなり、その一部や全部が脱落すると病気になったり死ぬという。また、人間には自分と魂を共有する動物がいて、その動物が死ぬと人間も死ぬと考える。
そのほかにも霊魂の逃亡や喪失を死の原因と考える社会は多い。ただし死後の霊魂の存在を信じる所では、死は単に肉体の滅亡を意味するにすぎず、魂はこの世や死者の世界で生き続ける。オーストラリア北部の先住民は、死後霊魂は霊の中心地へ帰るか、チョウの姿で生活するという。なお、肉体的な死と社会的な死が食い違う場合もある。たとえばヌエル人の社会では、行方不明者の葬儀を行ったあとに本人が帰ってきた場合、葬儀によって彼の魂は犠牲の牛とともにあの世に行き、彼と生者の関係は断ち切られてしまったと考えるので、彼は肉体的には生きていても社会的には死んでいるとされ、親族から親族として扱ってもらえない。一般に、人間は死という自然現象を文化的、社会的に取り扱うことによって、死に意味を与え、死に対する不安や恐れに対処するのである。
死体の処理目次を見る
葬法には、土葬、火葬、水葬、林葬、鳥葬、洞窟(どうくつ)葬、ミイラなどと種類が多いが、水葬のように遺体の全部を永久にこの世から断絶しようとするものと、ミイラのように遺体をそのままの姿で保存し崇拝しようとするものとの両極端があり、その他の葬法においても、死体軟部が焼け、腐り、あるいは動物に食われたあと、骨を拾い集めてふたたび祀(まつ)るものと、一度の処理で終わるものとがある。これを大別すると、遺体もしくは遺骨を保存し尊重するか、遺体のなかの霊魂だけを崇拝するか、に分けることができよう。日本の場合は早くから霊魂信仰が発達し、また近い時代まで濃厚に残存したので、霊肉を分離して、霊魂だけを祀る考え方が支配的であったが、歴史以前にもそれ以後も雑多な文化を受け入れており、そのためいくつかの葬法が混在している。とくに奄美(あまみ)・沖縄諸島では、墓や洞窟にいったん葬り、数年後に開いて肉と骨とを分離する洗骨が行われており、骨を壺(つぼ)に入れて祀り直す習俗がある。
出典:日本大百科全書(ニッポニカ) - このフォーラムには0件のトピック、9件の返信があり、最後ににより2023年8月30日07:12に更新されました。
3. では、それが無ければ、今まで与えてもらっていた価値を、みんなが自分で全部、どのように満たしていけば良いのか?
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4. 改めてイメージしてみると、それがそこに存在できているのは、その周りの誰が(あるいは、何が)支えてくれているお陰なのか?
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